食品による町おこしとサツマイモビジネス!

国際学院埼玉短期大学国際学院埼玉短期大学 (kgef.ac.jp)健康栄養学科食物栄養専攻食品経済学ゼミグループのみなさんがお書きになった研究論文『食品による町おこしとサツマイモビジネス』です。
ゼミ指導教員である大野満奈先生よりさつまいも大学サイトへの掲載ご快諾いただきました。

 Ⅰ.はじめに

本稿が取り上げるSDGsの11は2030年までに「誰も取り残さない持続可能なまちづくり」を目指すものであり、すべての国で「誰もが参加できる形で持続可能な町づくりを計画し実行できるような能力を高める」という目標を掲げている。このような沢山の人たちが健康で快適に住み続けるために誰済的にも「強靭(レジリエント)」な都市が必要とされている。

私たちはそのために必要な町の活性化について、食品に注目し研究した。

本稿は2章だての構成となっている。1章では食品による町おこしを成功した自治体の例を、サツマイモやその他の食品を中心に研究した結果を表した。

学外研修として川越サツマイモ資料館等を訪れた結果、日本においてサツマイモがいかに重要な食糧源であったかを、そしてサツマイモのビジネスが時代ごとに発展し、今もなおブームを起こしていることを知った。そこで、2章ではサツマイモビジネスについて調べた結果をまとめた。

Ⅱ.方法

1. 学外研修に出向き、サツマイモで川越の町おこしを実践した方々に講話して頂く。川越いも友の会会長ベーリ・ドゥエル氏やサツマイモ漫画資料館・館長山田英次先生等のサツマイモ研究家のからお話を伺い、芋に関係する川越市内の場所を案内して頂く。

2. インターネットを利用し検索する。

3 図書館やサツマイモ漫画資料館の文献を参考にする。

Ⅲ.結果

1.食品による町おこし

(1)SDGsと町おこし

SDGs目標11のキャッチコピーは「住み続けられるまちづくりを」であり、正式目標は「包摂的で安全かつ強靱(レジリエント)で持続可能な都市及び人間居住を実現する」となっている。レジリエントは弾力や柔軟といった意味合いで、物理学や心理学で使われていた言葉であるが、ここでは変化する状況や変わりゆく出来事に対して柔軟に対応していく、といった広域な使われ方をしている。

都市部への一極集中を解消することも課題にあげられているなど、様々な側面から住み続けられる町を作っていくことが目標の大まかな概要である。そのなかでも本稿が注目するのは「地方の活性化」である。日本で言えば、東京への一極集中による人口減・少子高齢化による税収減や医療費の支出増などにより、近年の地方自治体は運営が困難になり過疎化の問題が多く浮上している。

そのため日本全体の「包摂的で安全かつ強靱(レジリエント)で持続可能な都市及び人間居住を実現する」には、いかに地方の課題を解決するかにかかっている。政府は、地方創生にSDGsを取り入れた成功モデルを発信し、全国の自治体が参考にできるよう、優れた取り組みを進める自治体を「SDGs未来都市」として選定する制度をスタートさせた。「SDGs未来都市」とは、日本のSDGsモデルの構築を目的とし、「経済」「社会」「環境」の三側面についての課題解決や新しい価値創造に向けて、優れた提案・計画をした自治体を国が選定するもので、後述の宇都宮市や上勝町(かみかつちょう)も2019年に選定されている。

こうした取り組みのなか、本稿では、特に食品によって町おこしを行っている自治体を研究するものである。地域のコミュニティが、経済力や人々の意欲を向上させ、人口を維持したり増価させたりするために行う再生活動を、その地域の郷土料理や特産品を駆使して活性化させていくことが「食」による町おこしである。地域特有の「食」を目指した観光客が旅行で訪れる事例が増えている。「食」を楽しみながら旅行をする観光客が多くいるということは、地域独自の「食」文化を発見し、的確に情報発信すれば、それが有力な地域ブランドとして人を呼び込み、地域の伝統を活かした観光資源になり得るのである。まさに都市型観光にとって、「食」がいかに重要な要素であるかを示している。

 (2)川越の町おこし

1)「トカイナカ」としての川越の位置づけ

埼玉県・川越市は、「市版SDGs調査2020」(株式会社ブランド総合研究所)で、日本一に選出され、最近では田舎と都会の要素を併せ持つ魅力のある「トカイナカ」としても注目されている。昔から商業が盛んであった地域だったこともあるが、実際に商家の建物が多く市内に残っている。川越に土蔵造り、いわゆる蔵が多いのは、明治26(1893)年の大火があり、復興する際に耐火建築をしようと考え、土蔵造りが採用されたのである。それが今では、蔵のある街並みとして注目され、国内外から多くの観光客が訪れるようになった。

ところが、もともとは蔵の街並みなどは過去の時代の遺物で、観光資源とは思われていなかった。市民団体が古い城や景勝地を買い取り、貴重な文化財を守ろうというイギリスの「ナショナル・トラスト運動」の考えが1970年代に日本にも広まりはじめ、市民の間でも問題意識を持つ人たちが出てきた。1983年には「川越蔵の会」が設立され、地元で商売をしている人や地元有志、専門家、学識経験者などが参加して、歴史的な街並みを残そうという気運が高まったのである。

今でこそ観光資源が豊かな川越市だが、蔵の街並みを残そうという気運を高めることが出来たことは、日本全体の町づくりに対する考えに刺激をもたらし、他の町づくりへも影響を与えることになる。市版SDGs調査のランキング結果をみると1位川越市、2位の金沢市(石川県)、4位の明石市(兵庫県)、5位の福岡市(福岡県)などは、古い町屋が残る商業の町である。地域の経済的中心都市としての役割を担っていた町が、SDGs調査ランキングで上位に並んでいるのである。町の発展に欠かせない「伝統を守る」という要素を持っていたからこそ、町づくりに成功してきた。

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)によるパンデミックが起き、あらゆる価値観が一変しつつある現在である。例えば、都心回帰の流れが緩み、郊外や地方へ分散の動きが始まっている。テレワークの導入で、自宅は都心にそこまで近くなくても良いと考える人たちも少なくない。しかし、古い民家をリノベーションして遠く離れた地方へ移住を実行した人たちは、まだ少数派である。

そこで「都会」と「田舎」の中間のような地域である「トカイナカ」が、いま注目を集めている。例えば、1996年に開通した圏央道に近い地域は、コロナ禍時代の新たな最適居住地として評価され始めている。つまり、都心とのほどよい距離間で、近くには豊かな自然が残っており、生活の利便性があることがポイントになっている。快適便利な都市生活と自然環境が身近にあること、それがトカイナカ暮らしである。もちろん、都心に比べれば感染症に脅かされるリスクも低い。川越市内の「川越駅」「本川越駅」は、駅ビルや商業施設の入ったショッピングモール、レストラン、オフィス、ホテルなどが立ち並ぶ。圏央道エリアには、そうしたトカイナカの適地がいくつもあり、川越市もその一つである。withコロナの時代は、ソーシャルディスタンスを維持しつつ、テレワークの活用によって働き方も変わり、トカイナカの町が新たな経済圏を構築する可能性が大きくなったのである。そういう意味で、川越市は、コロナ禍時代の新しい町づくりのモデルとして、大いに注目されている。

このように、川越が今日では「トカイナカ」として栄えているが、そのもともとの経済的な原動力となったのはサツマイモの存在がある。私たちのゼミでは、実際に川越に出向き、川越サツマイモの専門家たちから多くの話を伺った。その内容を含んで、次節以降にまとめる。

2) 川越のサツマイモについて             

① 川越芋

「川越芋」とは、江戸時代の川越藩領と川越の南に広がる畑作地帯の武蔵野台地にある周辺の村々を含む川越地方(現在の川越市、所沢市、狭山市、富士見市、ふじみ野市、三芳市等)で生産されるサツマイモのことを言う。江戸の焼芋屋は、「九里よりうまい十三里」と看板に書いて商売をしていて、これはキャッチコピーのようなもので、「栗よりも13里の方が美味しい」(江戸から川越までの距離が13里ですなわち川越芋のこと)という意味の9里+4里(くり+より)=13里 もかけている。

南永井村(現・所沢市)の名主・吉田弥右衛門が、寛永4(1751)年に、上総国(現千葉県)より種芋と栽培法を導入し、飢饉に強い救荒(きゅうこう)作物として川越地方のサツマイモを作り始めた。収穫したサツマイモは、新河岸川の舟運によって江戸へ運ばれ、川越はその集散地となった。

吉田弥右衛門はその功績から、死後239年経った平成18(2005)年、甘藷乃神として青木昆陽と共に所沢市中富の三富・富岡総鎮守神明社に祀られた

② 品種

その昔、明治時代まで、川越芋といえば「青ゾル・赤ゾル」の2種類だった。文字のとおり、「青ゾル」はつるが青く、「赤ゾル」はつるが赤かったが、本場ものの絶品と呼ばれたのは、「赤ゾル」のほうで、味も大変良かったといわれている。しかし、明治31(1898)年に大宮台地にある北足立郡木崎村現在の浦和区針ヶ谷で、主婦の山田いちがそれ以上の名品である突然変異のサツマイモ「紅赤(べニアカ)」を発見すると、栽培が難しいにもかかわらず川越地方でもいち早く取り入れられて、川越芋といえば紅赤といわれるほどになった

山田いち 文久3(1863)-昭和13(1938)

大正・昭和初期は、「西日本の源氏、東日本の紅赤」といわれるほど他県でも多く生産され、国内の代表的な優良品種だった。

いちは、元来几帳面な性格で、研究熱心に種芋選びにも注意を払っていた。中身が黄みがかり食べるとほくほくして美味しい、これが後に紅赤と名付けられた在来種の八ツ房(やつふさ)から突然変異したサツマイモであった。

大正11(1922)年いち59歳の時、木崎村農会で、紅赤の発見者として表彰され、昭和5(1930)年北足立郡の品評会で郡農会長より特別賞を受賞し、1931年10月1日いち68歳の時、財団法人富民協会から「富民賞」を受賞した。これらは、当時の女性の身としては珍しい栄誉ある表彰となった。なお、紅赤や山田いちに関する詳細な資料は、親族の協力も得て北浦和図書館に集められ貯蔵されている。

その後、戦中・戦後より新品種が登場して、現在まで作り易く収量も多い様々なサツマイモが作られているが、地元の頑固な農家や愛好者にとっては、「やはり、本当の川越芋は紅赤」ということになっている。紅赤は、甘味はあまり強くないが、芋の風味と絹のような舌触りから、様々と絶品」と、昔より賞賛された。

いまでは、その紅赤が生産されている地域は、国内でも川越市・三芳町・さいたま市のみになってしまった。川越地方では、現在、15品種程度のサツマイモが生産されているが、120年も続く伝統品種の紅赤は、地元さいたま市民も巻き込んだ保存運動が必要な希少な品種となっている。後述のように、本学もその保存運動に加わっている。

③ 時の鐘周辺のサツマイモ商品

 川越・蔵造りの街並み観光エリアの中心地でもあり、小江戸川越のシンボルとなっている木造三層構造の鐘撞堂「時の鐘」であるが、現在の建物は、明治26(1893)年の川越大火後の、1894年に再建されたものであり、高さは16.2mある。

時の鐘通りでも、いろいろな芋商品が売られている。福呂屋(生きんつば)、右門時の鐘店(芋恋まんじゅう、芋ソフトクリーム、芋ぽてと等)、大学芋「いわた」(大学芋、お芋チーズケーキ、芋ようかん等)、その他の店舗ではサツマイモ・チップス、アメリカで開催されたワールドビアカップ スペシャリティービール部門で銀賞を受賞紅赤ビール、紅赤焼酎、芋醤油、紫芋餃子、芋うどん、芋もちなどがある。

④「いも膳」への訪問 

 川越市には地元の消費者をターゲットとする何百年も続いた趣のある店がたくさん営業していた。いも膳の神山社長は、そのなかで経営していくには、「いかにお客さんに注目して、喜んで頂くか」と考え、食材は地元産で良質なものが十分供給可能なさつまいもを使った珍しい料理を提供する店にしようと考えたそうだ。川越ではサツマイモは、昔から郷土食として親しまれてきた歴史があり、「一番美味しいものはこの風土が育てた食材である」という確信があった神山氏(下図1-7)は、それを主役にした料理屋を開こうと決めた。

芋は高級な食材ではなく、天ぷらなどで家庭の食卓にのることが多く、そのイメージは決して良いものではなかった。そこで、盛りつける器や掛天ぷら材にこだわることで、「芋」という先入観を取り除こうと試行錯誤の結果、今の芋をメインとした「芋懐石」ができたという。

「芋がたくさん採れる地域は全国にある。だから、サツマイモ資料館を作って地方の人に町おこしの事例として情報を開示した」「現状維持のための資金確保ではいけない。将来実るものが見える投資でなければ」と、不況に苦しむ時代だからこそ、安定した経営に必要なのは、足元だけではなくのちに来る、「波」を読むことそして、そこから、現実に落とし込んだ計画を立てていくことが大事なのだと神山氏は話して下さった。

川越の特産物「サツマイモ」を活かした料理、芋点心をいただいた。一つひとつにサツマイモが使用されており、芋づくしの一品であった。サツマイモ料理を舌で楽しむほかに、盛り付けの仕方や、庭の景観など細部にこだわっていて視覚や聴覚など五感を研ぎ澄ませながら料理を味わうことができた。

なかでも、サツマイモの天ぷらはずっしりとしていて甘く、食べ応えがあった。また、一見そばに見えるがサツマイモで作った「うどん」だと知り、そばアレルギーの方でも食すことができるアレンジ料理であることを知った。

⑤川越サツマイモ産業の成り立ちのまとめ

前述のように、サツマイモのイメージが定着したのは、1700年代のことである。そのころの江戸で焼き芋が大ヒットしたのがきっかけで、近隣の農家ではサツマイモの栽培が盛んになった。大ヒットした理由は、サツマイモが庶民の食べ物では、数少ない甘い食べ物であったこと、そして、とても安く手に入ったからである。当時頃芋屋は、「栗(九里)より(四里)うまい十三里」と看板に書いて焼芋を売っていた。なかでも川越芋は質が良く最高級品とされた。サツマイモは陸路での搬送に不向きだったこともあり、江戸と新河岸川で結ばれている川越は、船での運搬によりサツマイモの大産地となったと言われている。

現在、川越市内の約14軒のサツマイモ農家で構成される「川越いも研究会」では、サツマイモ直売や宅配、芋掘り観光を行っている。芋掘り観光をはじめて50年の「芋掘り観光 山田園」の畑には、シーズンになると保育園や幼稚園、学校の行事やファミリー層などが芋掘り観光に訪れる。

こうして、川越はサツマイモ産業によってSDGs11番目の目標として掲げている「住み続けられるまちづくりを」を実現しつつある。そして、伝統的に受け継がれてきたサツマイモ産業を遺産として今日に合ったかたちに変え継承していこうとしている。

(3)大宮ナポリタン

大宮は武蔵国の一宮ともいわれる氷川神社の門前町として、また特に江戸時代以後、中山道の宿場町として、発展した歴史をもつ町で古くからの交通の要衝だった。また、江戸時代から、北関東は養蚕や絹織物の産業が発展していたが、江戸末期の開国以降は、重要な輸出品として、国の基幹産業となっていく。

現在のJR高崎線は、日本初の私鉄である日本鉄道の第1期線で、明治16(1883)年に開通したが、当初大宮駅は設置されなかった。衰退を懸念する地元の要望もあり、現在のJR宇都宮線である第2期線が明治18(1885)年に開通するにあたり、その分岐駅として大宮駅が開設された。北関東の養蚕地と、生糸を積み出しする横浜港の間に位置する大宮には製糸工場が多数立地し、生糸の生産地としても発展した。

 明治29(1896)年には大宮駅の北に隣接して日本鉄道大宮工場(現・大宮総合車両センター・大宮車両所)が開設され、1901年には岡谷の片倉組(現・片倉工業)、1904年に岡谷製糸大宮館、1907年に須坂の山丸組(山丸製糸)といった、長野県を発祥とする製糸工場が進出した。明治末期から戦前にかけては11もの製糸工場があったので、製糸業の繁栄とともに人や資本がさらに集まるようになり、大宮の町は大いに発展していった。

明治39(1906)年には国有化され、国の基幹となる鉄道の工場として発展していく。大宮工場では、鉄道車両の修繕・補修が中心に行われてきたほか、戦前には蒸気機関車の製造も多く行われ、工場周辺には労働者も多く暮らすようになり、大宮はさらに発展する。また、私鉄も含め多くの路線が乗り入れるようになったほか、昭和57(1982)年には東北・上越新幹線が開通するなど、大ターミナル駅となっていく。

かつて、「鉄道の町大宮」として栄え、その周辺で働いていた鉄道員や工場マンが、手軽で腹持ちの良いナポリタンをよく食べていたと言われている。

そのようなナポリタンを、ご当地グルメとして復活させたのが、大宮ナポリタンであり、「大宮を代表する新たなB級グルメを」との企画から生まれ、平成27(2015)年4月に登場した。  「大宮ナポリタン」の条件は、旧大宮市内(大宮、西、東、見沼の各区)に店舗があり、具材に埼玉県産野菜を一種類以上使うこと。味は、いたって普通の昔ながらのナポリタンの味である。大宮のサッカーチーム、アルディージャのチームカラー、氷川神社の鳥居の色がそれぞれ「オレンジ」ということと、パスタ消費量が日本一(2012~2014年の平均値で全国一位)となったことから誕生した。

現在は、伯爵邸を筆頭に旧大宮市内にある約50店舗で大宮ナポリタンを提供している。

 本格パスタをカリカリの軽い食感に揚げた、新感覚パスタスナックの専門店「スリーズパスタスナック」のルミネ大宮店では、大宮のソウルフードともいえる大宮ナポリタンをコンセプトとした「大宮ナポリタンフライドパスタスナック」が販売されている。

「さいたまの美味しい土産はたくさんあるが、より大宮色を出した何かを作りたい」という思いから、「大宮B級グルメの大宮ナポリタンを、持って帰ることのできる土産にできないか」と埼玉県民有志による「埼玉みやげラボ」のアイデアによって考案された。

また、20種類の野菜汁を中心にナポリタンをイメージした「ナポリタン煎餅」がある。大宮ナポリタン会メンバーが味の評価を担当し、パッケージは「埼玉みやげラボ」が協力した。埼玉みやげラボが協力した最初の商品のパッケージは箱型で、中に小分けの袋が内包されていたが、用途としての手土産や観光土産といった需要が新型コロナウイルスの影響により減っているため、新たな顧客を開拓しようと、1袋60グラムと小ぶりで中身の見える袋に一新した。中身は変わっておらず、パッケージには大宮ナポリタンと鉄道のイラストがデザインされている。

この大宮ナポリタンスナックを販売する三州製菓の斉之平一隆専務は「プチギフトや自分用としての利用など、気軽に手に取っていただきやすいサイズになっている」と話す。「このスナックが実際に店に足を運び大宮ナポリタンを食べるきっかけになり、新型コロナウイルスの影響を受けている大宮の飲食店に活気を取り戻す一助になれば」とも取材で述べている。

 

(4)葉っぱビジネス

四国にある徳島県上勝町は、人口約1500人、高齢化率50%を超える町である。徳島県のほぼ中央に位置し、徳島県からは約1時間の山あいにあり地形は平地が少なく急斜で、農業には不利なようにも見える地域であった。しかし、その反面山あいの地形・冷涼な気候、高齢者の知恵があり葉っぱビジネスには最適な場所だった。

1980年ごろまでの町の産業であった木材や温州みかんなどは厳しい局面を迎えていた。昭和56(1981)年には局地的な異常寒波が上勝町を襲い、みかんが枯死し、大打撃を受け、その後、町内では、軽量野菜や、椎茸栽培など試行錯誤することとなった。そのようななか、当時農協職員だった横石知二氏が、町の半数近くを占める高齢者や女性が活躍できる仕事はないかと模索し、そして、1986年に山々にある葉っぱをつまものとして販売しようと発案した。こうして、ブランド名「彩(いろどり)」として「葉っぱビジネス」がスタートした。

特徴は、商品が軽量で見た目が美しく、女性や高齢者が取り組みやすいことがあげられる。多品種少量生産であり、種類は300以上、1年を通して出荷し、上勝町内の農家は、約150軒,年商は、2億6000万円にも上る。なかには、年間売り上げが1千万円をこえる高齢者もいる。

2018年上勝町は「SDGs未来都市」に選定され、日本全国や世界から再度注目をされる町になった。SDGsとは、2015年9月に国連サミットで採択された2030年までに世界を更に良くする持続可能な開発目標のことであり、社会的に弱い立場にある人々も含め市民一人ひとり孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として支え合い、誰一人取り残さないという考え方の事である。葉っぱビジネスで稼げることが楽しみになり高齢者や女性の生産意欲向上、地域就業に大きく貢献することができ、「11.住み続けられるまちづくり」「11.3  2030年までに、包摂的かつ持続可能な都市化を促進し、すべての国々の参加型、包摂的かつ持続可能な人間居住計画・管理の能力を強化する」の目標を大いに達成できる可能性がある。

(5)宇都宮餃子

宇都宮餃子は元々、宇都宮の町おこしのために人々が作り上げた食文化であり、郷土の伝統や歴史とは一切関係ないものである。餃子を町おこしに利用したのは、栃木県はニラの生産量が日本一だったと背景があるが、宇都宮市の餃子消費量が昭和63(1988)年の統計開始以来、4年連続で全国一位だったことが発端といわれている。1988年から1989年にかけては「ふるさと創生」の方法を探していた宇都宮市の職員、沼尾博行氏が宇都宮市の餃子の購入額が日本一ということを知り「餃子町おこし」を発案した。               

 栃木県農業試験場で開発された「ねぎにら(なかみどり)」は、地元宇都宮のネギ「新里ネギ」を母親、ニラ「きぬみどり」を父親の胚培養により誕生した。品種名「なかみどり」は、栃木県を流れる那珂川の「なか」と、父親の「きぬみどり」から由来する。カロチン、鉄分、リン、繊維質、糖質すべてネギとニラより多く含まれており栄養満点といわれている。また、ネギとニラの交配種なのに、不思議とニンニク風味し、甘みたっぷりで餃子にぴったりである。ニラの断面は細長く、ネギの断面は丸になるが、ねぎにらは半月状になるのが特徴である。餃子以外にも、卵焼きやもやし和えにも合う。

宇都宮市民の200名を対象としたアンケート調査が発表されており、「餃子が好きか」の問いには93%が好きと答え、「月に何回食べるか」では「2回、3回以上」が合わせて61%だった。そして、「餃子を宇都宮の名物にすること」には72%の人が賛成であった。そこから宇都宮市は「餃子の町」を自称するようになった。そしてPR策が功を結びテレビ番組で取り上げられたことなどから、一気に「餃子の町」が全国区となった。

 当初は、駅から離れた場所に地元の有名店が点在するだけだった餃子店は、注目度が上がると共に増加し、今では駅前、駅ビルでも多数の餃子店が営業している。また、餃子目当ての観光客や宇都宮市の人口は増加している。宇都宮市の人口は戦後一度も減少していない。このことから、餃子は宇都宮を発展させる要因になったといえる。

 宇都宮市では,宇都宮餃子を通じてSDGsの11番、「住み続けられるまちづくり」を目標としている。本市のSDGsの達成に向けた取組の提案が、経済・社会・環境の三側面における新しい価値創出を通して持続可能な開発を実現するポテンシャルの高い都市として、「SDGs未来都市」に選定された。

(6)オオサンショウウオこんにゃく

広島県立湯来南高校の生徒らが、湯来町(ゆきちょう)の名物や特産品をもとに地域活性化を図ろうという試みにより生まれた商品である。生徒たちが商品を製作するにあたって注目したのが、同町名産のこんにゃくと町内を流れる水内川に生息するオオサンショウウオだった。地元のこんにゃく業者「藤利食品」に協力を仰ぎながら打ち合わせを重ね、商品化にこぎ着けた。これがSNSで拡散されると「キモかわいい」と大変話題になり多くのメディアにも取り上げられた。インターネットでの販売も始め全国から注文が殺到し、購入まで数か月待ちの状態が続いている。湯来特産品市場館には県外からも多くの客が訪れ賑わっている。

魚卵を練り込んであり味付けはしょうゆ出汁でさっぱり風である。独自の製法によりじっくりと味付けされたこんにゃくで水洗いはせず、良く冷やして食す。現在注文しても配達まで2-3か月を要する人気ぶりである。

(7)甘藷みしまコロッケ

静岡県三島市で、平成20年10月7日に開かれた「みしまコロッケの会」で、メークインが採れない秋から春は箱根西麓のさつまいもを使ったコロッケを開発・販売することになった。その名前は「甘藷(かんしょ)みしまコロッケ」である。「みしまコロッケの会」は、土、日曜日には三嶋大社や源兵衛川など市内を散策する人が多く、その観光客に三島特産の三島馬鈴薯(メークイン)を食べて欲しいと思い、そして「みしまコロッケ」で町おこしをしようと、市民、商店主、生産者や関係団体、三島市が協働で運営する団体で、レストラン、食堂、肉屋、スーパーなどの協賛店の認定やPRなどみしまコロッケによるまちづくりを推進している。そして、市民、商店主、生産者や関係団体、三島市が協働で「みしまコロッケの会」を立ち上げた。

大好評だった「みしまコロッケ」は、材料を三島馬鈴薯のみとしていたが、みしまコロッケの姉妹品「甘藷みしまコロッケ」は、「山北印」の甘藷だけで作っている。山北印の甘藷はかつて市場では最高価格で取引されており、全国のさつま芋の値段を左右させるほど有名で、その糖度は13度∼14度(紅ほっぺイチゴ15度、マスクメロン15度)と果物ように甘い。 

この「山北印」の甘藷は、「紅あずま」と「紅こうけい」「紅はるか」が栽培されているが、スイーツ感覚で食べられると人気になっている。  

「みしまコロッケ」の定義は、「三島馬鈴薯を使用する」だけで、三島馬鈴薯(メークイン)を100%使用することである。三島馬鈴薯を使用しているかを仕入先の確認で認定をしている。中に入れる具や形は型にはめないで、それぞれ民間の創作としている。 

みしまコロッケを販売する認定店は、三島市内だけでも約90店舗あり今年採れた三島馬鈴薯で作ったみしまコロッケは、毎年7月1日から一斉に販売開始となる。店にみしまコロッケの「のぼり旗」が出ていたら販売をしている目印で、三島馬鈴薯が6~7月の1か月程度しか販売しないため、各店の三島馬鈴薯が終わってしまうと、みしまコロッケの販売も終了となってしまうという。

2.サツマイモブームとサツマイモビジネス 

(1)焼き芋ブームの歴史

サツマイモは、メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれた。紀元前800~1000年ごろには、中央アンデス地方でサツマイモが作られていた。紀元前200~600年に作られたサツマイモをかたどった土器も見つかっている。

ヨーロッパへはコロンブスが15世紀の終わりにアメリカから持ち帰ったのが始まりだが涼しすぎて気候が合わず、あまり作られなかった。暖かいアフリカ、インド、東南アジアの植民地に持ち込まれたことで、世界中に広がった。

 東南アジアへはスペイン人やポルトガル人が持ち込んでその後中国へ広がったとされている。記録に残っているものによれば、16世紀にはインド、マレー、インドネシア、フィリピンへと伝わり、中国の福建省には天正12(1584)年に伝えられている。

日本へ伝わったのは、慶長2(1597)年に宮古島に入ったのが最初とされている。宮古島はいつの時代でも台風や、干魃(かんばつ)で長い期間雨が降らず、作物が全て枯れてしまうなどの天災にみまわれ、食物を手に入れることができず、多くの島民が死んでしまうことが何度もあった。

1594年、宮古島の村番所の役人をしていた長真氏旨屋(ちょうしんうじしおく)が琉球王朝への報告のために首里へ仕事で行った帰りに旨屋と2人の宮古島の人たちが乗った船は強い風に流されて、宮古島に着くことができず、漂流して、中国の福建省にある福州(ふっちゅん)というところに着いた。福州に滞在中、旨屋は唐芋という食べ物があることを知り 、「この唐イモを宮古島でも育てることができると、島の人々にとって大きな助けになる」 と考え、1597年、長真氏旨屋はようやく宮古島に戻ることができ、中国から唐イモ(今のサツマイモの別称)の茎を持ちかえり、宮古島での栽培が始まった。唐芋は高温多湿を好み、大風、台風にも強く、まさに琉球国に、うってつけの作物だった。

沖縄本島では野国総官が中国福州から唐イモの鉢植えを持ち帰り、栽培をしたのが慶長10(1605)年で、嘉手納町野国村で栽培されていたが、宮古島ではそれより7~8年前から唐イモの栽培が始められていたということになる。

野国総官の持ち帰った唐イモは、その後18世紀に入ってから九州の薩摩(現在の鹿児島県)に伝えられ、日本全国で薩摩の芋、“サツマイモ”と呼ばれるようになったという説がある。

その後青木昆陽が徳川吉宗の命を受け本格的に広く甘藷栽培を始め、その後全国的に普及させた。

焼き芋第1次ブームは江戸時代の文化・文政期(1804年)に始まり、明治維新1868年にまで及ぶ。江戸時代後期は砂糖が貴重品で、甘くて安い焼き芋は老若男女、貧富を問わず大人気を博した。その繁盛ぶりは、当時の浮世絵等からもうかがえる。

江戸での芋の焼き方は、いまの石焼きいもとはまったく違うものだった。店の土間やひさしの下に、土で竈(へっつい)を作り、焙烙(ほうろく)を載せる。その底に芋を並べ、重い木のふたをして蒸し焼きにした。燃料は古俵と古縄である。江戸には全国から様々な物資が入った。その梱包材料は俵と縄だったので、使い古しが毎日大量にでた。それを安く買って燃料にした。焙烙は、素焼きの土鍋の一種であるので割れやすいため、大きなサイズのものは作れなかったため客の多い焼き芋屋は、焙烙では間に合わなくなり、やがて鋳物の大きくて浅い平鍋を使うようになった(図2-4参照)。焼き芋には芋を丸ごと焼く「まる焼き」と、大きい芋をいくつかにはす切りにして焼く「切り焼き」があった。江戸っ子はまる焼きのほうを好んだ。

江戸には焼き芋屋が少なく、焼き芋は城下町の町ごとの境に設けた木戸の番人である木戸番小屋で売ることが多かった。木戸の番人を「番太」と呼ばれ、町から出している給金があまりに微々たる物なので、木戸番小屋では、駄菓子、わらじ、箒などの日用雑貨を扱っても良いことになっていた。そこで、夏には金魚、冬は焼き芋を売っていた。ふつうの駄菓子屋では火を使って商売することは、禁じられていたが、木戸番なら夜中はずっと町内を拍子木を打って夜回り兼時刻の知らせをするほか、火の用心の仕事もするので、特別に火を使うことを許されていた。

第2次ブームは明治時代から関東大震災の1923年まで起こっていた。明治維新以降、東京の人口急増と安い値段によって、焼き芋の需要が増大した。もう一つは東京の米価の変動は激しく度々高騰したことにより、安定した価格の芋が多く求められた。米が買えない低所得者にとっては、安価な芋が貴重な食糧であった。それに応えるために現れた芋専門店は冬期間のみの商いで、夏場はかき氷屋なども兼ねていた。明治・大正期は農家がひたすら良い芋作りに励んだ。

しかし、焼き芋の消費は関東大震災を境に、菓子パン、ビスケット、カステラ、キャラメル、チョコレートなどの洋菓子の普及もあって減退していった。震災後の新しい東京では古いものが嫌われ、新しいものが好まれるようになっていたため、江戸時代以来のおやつは嫌われ焼き芋は時代遅れになった。

また、その後、日本における主食である米や麦などの食糧の価格や供給等を、日本国政府が管理する食糧統制が昭和16(1941)年から始まり昭和25(1950)年にサツマイモの統制解除が終わるまでの間、焼き芋の流通も停止に追い込まれる。サツマイモも国の統制品となり、自由な売買ができなくなってしまった。

(太平洋戦争の時代においては、国策でサツマイモは質より量の生産が盛んにおこなわれたが、昭和30年代より、都市近郊の新しい農業として「観光農園」が登場し盛んになった。焼き芋の歴史とは逸れるが、レジャーブームと第一次ベビーブームを迎え、芋ほり観光や修学旅行での芋ほりが娯楽として盛んに行われた。)

第3次ブームは昭和26(1951)年から大阪万博の昭和45(1970)年に終わる。戦災で、竈焼きの店も壺焼き屋もほとんど消えてしまったが、それに代わって現れたのが「石焼き芋」だった。鉄板製の箱に小石を入れ、それで芋を焼く道具をリヤカーに乗せ、町の中を売り歩くという新式だった。戦前の東京の焼き芋屋は竈式も壺焼きも店の中で芋を焼き、店で売っていたが、石焼き芋は店に来てくれる客を待つのではなく、客の多い場所を回って売る方式で繁盛した。

すなわち、昭和26(1951)年に、三野輪万蔵(みのわまんぞう)によって考案された石焼き芋の「引き売り屋台」が東京に登場する。焼き芋を売るリヤカーは普通のものではなく鉄工所に特注で作らせた大きくて、頑丈なものだった。三野輪万蔵は最初それで町に出て売り歩いて財を成した。

それ以降、軽トラックに石焼き窯を乗せた移動販売が全国的にみられるようになる。石焼き芋の大ブームは、高度経済成長期とほぼ軌を一にして起きた。しかし、1970年の大阪万博を境に、石焼き芋はファストフードの進出もあって衰退の道をたどる。

(2)平成焼き芋ブームの要因

2003(平成15)年から現在に至り第4次ブームが訪れその芋ブームは、令和の今も引き継がれている。平成の焼き芋ブームの要因は、次のような時代背景があるといえる。

①焼き芋オーブンの開発・普及

 焼き芋の販売方式が移動から固定に転換していった。第3次焼き芋ブームの主役は、石焼き芋であった。その販売方法は、軽トラックに引き売り屋台を乗せての移動販売方式であった。焼き芋オーブンの登場によって、店内での固定販売方式に転換し、その普及によって安い値段で何時でも購入が可能となった。遠赤外線利用の「焼き芋オーブン(電気式自動焼き芋機)」は、焼き温度と焼き上がり時間などをセットすれば、焼き芋が焼ける。焼き芋のおいしさは、品種、貯蔵期間、大きさ、オーブン内部の焼き位置、焼き上が、焼き上がり時間によって異なる。このオーブン開発者は、栃木県の株式会社群商である。同社では平成10(1998)年から焼き芋オーブンの開発に着手し、2003年に特許を取得した。このオーブンの開発・普及が、焼き芋ブームの起爆剤となった。

 群商は年商2億5千万円ほどの上述した日本初の焼き芋オーブンを開発し、約4000店舗のスーパーにある。群商のオーブンはヒーターで包み込むように焼き、温度が上昇しアミラーゼを糖に変えて甘くて美味しい焼き芋をスーパーなどで手軽に買えるようになった。今日では、「焼き芋オーブン」が焼き上がりを音声で教えてくれるようになり進化している。

②焼き芋がマイナスからプラスイメージへ変化

 平成16(2004)年に入ると白ハト食品工業株式会社は、東京・銀座三越に焼き芋専門店を出店させた。当初、焼き芋1本1200円の高値で販売されたが、スイーツのようにおいしく、カラフルな包装袋もお客を魅了した。焼き芋のマイナスイメージをプラスに一変させる見事な商法であった。同社のもう一つの功績は、焼き芋の嗜好の潮流がほくほく系からしっとり・ねっとり系の品種へ移行しつつあることをいち早く感知し、2003年頃から甘い安納芋に着目して消費拡大を図ったことにある。

③おいしいしっとり・ねっとり系品種の育成・普及

 焼き芋用品種を食感・肉質で分類すると、ほくほく系の粉質、しっとり系の中間質、ねっとり系の粘質に区分できる。平成14(2002)年以前までは、「ベニアズマ」などのほくほく系が主流であった。平成15(2003)年以降からは、しっとり・ねっとり系の安納芋(あんのういも)にも注目が集まった。平成19(2007)年にしっとり、ねっとり系の甘い「べにはるか」が育成され、平成27(2015)年には人気品種のトップに躍り出た。

④高品質芋の周年供給体制の確立

焼き芋における食味のバラツキは、生芋のでん粉含量と相関がある。また、生芋のでん粉含量は、圃場(ほじょう)間で差はあるが同一圃場内では場所による差は小さい。JAなめがたではこの知見を基に、生芋のでん粉含量に応じてサツマイモの出荷時期を調整している。さらに、サツマイモの各品種は、貯蔵期間中を含めてさまざまな食味特性を示す。その特性を生かすため、キュアリング処理し定温貯蔵された各品種を、出荷する周年供給体制が確立された。収穫直後のサツマイモを、高温多湿の環境条件下におくことで、芋表皮下の直下にある層を増加させ貯蔵性を高める。

キュアリング処理に関しては、株式会社くしまあおいファームがサツマイモ輸出に積極的に取り入れている。宮崎県にあるくしまアオイファームでは様々なサツマイモを作っているが、平成22(2010)年に誕生して以来、最近の焼き芋ブームをけん引している品種は、紅はるかという芋は春こがねという品種を交配させて生まれた芋である。紅はるかは、甘未が強く、ねっとりしている。適切な温度・湿度の環境下で数か月貯蔵熟成することで糖化が進み、全品種の中でもトップクラスの甘未を誇るようになる。くしまアオイファームが輸出・販売している台湾やシンガポールなどの東南アジアの日系スーパーでも、焼き芋ブームが起きている。東南アジアでは、日本と異なり小さく細長いサツマイモをおやつとして食する習慣があるため、日本の小さな品質の良いサツマイモの需要が拡大している。

海外に輸送する際、芋が悪くなってしまわないように、キュアリングが行われている。高温多湿な空気に入れて膜をつくり、傷を減らすことができる。東南アジアの国々に船で輸出する際5割の芋がカビなどのダメージで廃棄されていたため、このキュアリングによってその廃棄量を1割にまで減少させることに成功した。キュアリングを行うことにより、食品ロスを減らすことができる。

⑤追い風となった健康志向の高まり

近年、国民の健康志向の高まりは顕著だ。多くの消費者から、焼き芋が添加物のない安全で自然な健康食品の一つとして支持されている。そのことも強い追い風となり、平成に続き令和の焼き芋ブームが続いている。

現在も進行中の焼き芋ブームは、今後もかなり長期間にわたって静かに続いていくとみている。その根拠は、おいしく安いので老若男女を問わず焼き芋愛好者が増えていること、自然・健康食品の一つとして焼き芋を食べている人が多いこと、冬期間限定の商品ではなくなり「夏でも焼き芋の時代」を迎えつつある。

⑥さいたま市によるサツマイモ商品開発

サツマイモに豊富に含まれるセルロースやペクチンなどの食物繊維は、便秘解消だけでなく、血液中のコレステロールを低下させる作用がある。そのため、さいたま市も現地で獲れた紅赤を使って以下のような商品作りに取り組んでいる。

1. 紅赤プリン:(足立屋)
2. 蜜芋ポテト:(彩果庵おおき)
3. 紅赤スイートポテト:(菓子工房まーぶる)
4. 紅赤さいたまあんぱん:(パン工房クロワッサン)
5. 紅赤どら焼き:(善収庵大こくや)
6. 紅赤ベーグル:(米粉入りベーグル専門店「WAベーグル」)
7. 芋ようかん:(岩戸屋)
8. 紅赤パイ:(GAKU BAKERY)
9. 紅芋クリームチーズベーグル:(パン&ベーグル小春日和)
10. ぐるめ米だんご(紅赤あん):(JAさいたま)

Ⅳ. 考察

 本研究では、その地域だからこそ行うことのできる独自の取り組みで町が発展していき、経済的に豊かになり観光客が増加すること等を考察できた。町だけで行動を起こすことは難しく、第三者の組織の協力や国や都道府県からの協力があることでより町おこしが行いやすくなり、人口減少や少子化や高齢化対策につながっていると考えられる。

 その第三者の協力団体として、4Hクラブと本学の紅赤保存活動への取り組みの例を挙げることができる。

 4Hクラブとは、将来の日本の農業を支える20~30代前半の若い農業者が中心となって組織され、農業経営をしていくうえでの身近な課題の解決方法を検討し、より良い技術を検討するためのプロジェクト活動を中心に、消費者や他クラブとの交流、地域ボランティア活動を行う農業青年クラブである。同クラブは、現在、日本全国に約850クラブ約1万3千人のクラブ員が、それぞれの活動を通じて、若手農業者の刺激となりつつ、日本のみならず世界に貢献できる農業者となることを目指している。

4Hとは、Head(頭脳)科学的に物ごとをとらえることのできる頭、Hand(技術)農業の改良と生活の改善に役立つ腕、Heart(心)誠実で友情に富む心、Health(健康)楽しく暮らし、元気で働くための健康の4つの頭文字をとったもので、実践を通じて自らを磨くとともに、互いに力を合わせて、よりよい農村、より良い日本を創ることを目的としている。

本学でも、平成22年からさいたま市4Hクラブとの連携で農業体験を実施し、平成25年度から、紅赤の栽培を活かして、鈴木伝一氏の圃場にて紅赤の栽培を行っている。調理学研究部アンジェとさいたま市の連携で実施し、地産地消対策を目的に活動している。活動内容は、紅赤の植え付けを約2回に分け、8月から9月頃に除草作業をし、10月中旬に収穫を行っている。同クラブは本学の五峯祭やさいたま市の農業祭りで紅赤を使った菓子を提供し、特に五峯祭では、紅ピヨパウンド、紅ピヨオレンジパウンド、紅ピヨザクザクパウンドなど様々な菓子を販売している。紅赤は普通のサツマイモよりも繊維が多いので、一番良い方法を考えて料理レシピを作っているとのことで、現在は本学古俣智江先生とアンジェの部員で毎年活動している。

本研究で、町おこしは自身の世代だけでなく将来の子どもたちの未来にも大きな影響を与えることを理解していくことが大切であることがわかった。町づくりは家や道路、施設ができあがった時点で終わりではない。そこで暮くらす人々が担い手となり、自分たちにとって「住み続けたい魅力的な町」にしていくためには、どのようなことができるか考えてみることが重要である。

川越は、蔵造りの町並みとサツマイモ商品により人が集まり、江戸時代の風情を残す町が再生されたと言える。そして、蔵造りの町並みとサツマイモの伝統を支えたのは、人々の熱意である。

本稿で述べたように、サツマイモ商品振興会を中心に川越芋を扱った商品が多く開発、販売され、「いも膳」に代表される芋料理が川越芋普及のために研究され商品化されている。サツマイモと蔵造りの町並みは共通して川越の誇りであるとドゥエル氏は述べている。そして、文化遺産の保護にはSNSを利用し、インスタ映えする情報が出回り、多くの人々と価値を共有し、町の魅力を求めた観光客が増えることが、文化関連産業の発展や文化遺産の保護に繋がっていく。

また、さいたま市と本学も紅赤の伝統を継承するための活動を行っている。伝統を継承していくためには、地域の人々の熱意、魅力、経済的支えを持ち備えた持続可能な仕組みづくりが必要となる。価値を継承しながら変化を受け入れた町おこしにより「だれも取り残さない持続可能な町づくり」が可能となることを本稿では考察した。

 

Ⅴ.おわりに

 SDGs11で掲げている、「11.3 2030年までに、包摂的かつ持続可能な都市化を促進し、すべての国々の参加型、包摂的かつ持続可能な人間居住計画・管理の能力を強化する。」に基づき、それぞれの地域で実際に行われている町おこしについての歴史や現状について学んだ。様々な町おこしの取り組みがあるなかで、どの取り組みにも、現在のみでなく将来にまで継承していこうという人々の強い思いが伝わってきた。その地域だからこそ行える独自の取り組みを行うことで町が発展していき、豊かになり観光客が増加するなどの結果が見られた。

都市部にだけ目を向けるのではなく、様々な地方に興味を持ち実際に足を運ぶことが町おこしに貢献する第一歩になる。私たちが暮らしている埼玉県の各地域でもSDGsの住み続けられる町づくりの取り組みをしていることがわかり、私たちができることは何かを改めて感じることができた。川越のサツマイモ専門の方々から話を聞いて、紅赤を今後も川越の名物として残していくことが大切だと感じた。また川越の紅赤を残していくことは、町づくりのほかに、食文化を残していくということにも繋がるのではないだろうか。

このように様々な地域の取り組みを調べることで、日本社会が少子高齢化等の問題を抱えているなか、その地域に合った町おこしの方法があるということを学ぶことができた。

地元の地域住民の思いとともに町おこしは行われている。些細なきかっけであっても、そのきっかけをつかみ取り、地域を巻き込んだ町おこしへと発展させるとともに、その町に込められた思いをくみとり、その価値を損なわせないまま今の時代に合わせ、より魅力的に変化させ、より輝かせていると感じた。

Ⅵ.参考文献・引用文献

「引用文献」

SDGsランキング “日本一” のまち川越市が描く「地方都市」の近未来 第1回 – 埼玉トカイナカ (tokainaka.jp)

紅赤~山田いちと針ヶ谷の風景~

http://ebook-viewer.com/imoshin/pdf/118031.pdf

JR大宮駅の純喫茶「伯爵邸」で名物デカ盛り「大宮ナポリタン」を食べてきた!

大宮ナポリタン フライドパスタスナック

埼玉県名物煎餅発祥物語彩の国ブランドフォーラム株式会社

徳島県上勝町の町おこしと高齢者対策

『おばあちゃん達による葉っぱビジネス』から『SDGs未来都市』へ

ねぎにら(なかみどり)苗 – 日光種苗株式会社

http://www.nikkoseed.co.jp/neginira/neginira.htm

地元の高校生とのコラボ商品! 「オオサンショウ オこんにゃく」

http://fujitoshi.shop35.makeshop.jp/shopdetail/000000000013/

みしまコロッケ探検隊!(最終閲覧日2022年1月5日)

http://www.at-s.com/sp/mishima_c/about.php

日本の食糧危機を救った、琉球の唐芋

青木昆陽 – Wikipedia 

やきいものお七 岩井半四郎 演劇博物館デジタル

名所江戸百景 びくにはし雪中 | 味の素 食の文化センター

菓子資料室 虎屋文庫 

九里四里うまい十三里。江戸の焼き芋 : Edo-CoCo

焼き芋カマド

http://image.blog.livedoor.jp/rasin_photo/imgs/d/7/d7a95510.jpg

石焼き芋屋は釜に火を付けたまま走っても違反にならないのか …

アゼント株式会社 台場一丁目商店街自治会長 久保浩の昭和ダイアリー

らぽっぽナチュラルスイートポテト

TBS がっちりマンデー サツマイモ特集 株式会社くしまアオイファーム

浦和の焼き芋屋さん「パタタベイス」

さいたま市紅赤スイーツ

4Hについて | 全国農業青年クラブ連絡協議会

https://zenkyo4h.com/about/

川越といったらこれ!「さつまいも」グルメを食べ尽くそう

https://aumo.jp/articles/26582

「参考文献」

焼き芋ブームの歴史とその背景

江戸・東京の焼き芋屋の移り変わり

山田英次 井上浩 橋本亜友樹 著『紅赤120年の魅力』川越いもの友の会・川越サツマイモ商品振興会発行 2018年

山田英次 著 『イラスト赤沢仁衛物語』改訂版 サン文化企画研究所発行 2020年

川越市立博物館 編集・発行「第45回企画展 川越とサツマイモ」2018年

以上

国際学院埼玉短期大学健康栄養学科食物栄養専攻令和3年度食品経済学ゼミグループ論文
『食品による町おこしとサツマイモビジネス』
大野満奈先生のご厚意により掲載させていただきました。

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