夢はさつまいも文化史の編纂・井上浩先生のさつまいも愛
- 2024/6/29
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元(一財)いも類振興会評議員・前日本いも類研究会会長の井上浩先生にお話をうかがいました。戦後すぐに教壇に立たれてから、多くの高校生たちに慕われてきた井上先生。教科書にとらわれ過ぎない社会科の授業は名門浦和高校・松山高校の名物授業でした。
優しく柔和なご表情から丁寧に語られた一言ひとこと。長い時間をかけて地道な調査研究を重ねていらした強い信念と幅広い知識に圧倒されました。両校OBのみなさん、社会科に苦手意識のある子どもさん達にも是非とも読んでいただきたいインタビューとなりました。
■井上 浩(いのうえ ひろし)先生
・1931年(昭和6年)、埼玉県飯能市に生まれる。
・県立川越高校、東京教育大(筑波大)経済学科卒。
・埼玉県立浦和高校、同松山高校教諭(歴史、地理)のかたわら、サツマイモの文化史の研究を続ける。
・1992年(平成4年)より、17年間、サツマイモ資料館長。
・2003年(平成15年)より、一般社団法人・日本いも類研究会元評議員。
・2023年7月11日 ご逝去(満92歳)ご遺徳を偲びご冥福をお祈り申し上げます。
井上浩先生
編著書
「川越いもの歴史」(蔵造り資料館、昭和57年)
「サツマイモの話」(たなか屋出版部、昭和59年)
「川越見て歩き」(幹書房、平成5年)
「サツマイモの女王 紅赤の100年』(同記念誌編集委員会、平成9年)
「川越地方のサツマイモ文化史」((株)さきたま出版会、令和6年)
zenbun.pdf (jrt.gr.jp)
井上先生とさつまいもとのご縁はどのように始まったのでしょうか?
私は戦争中に食べるものがない飢饉を体験しました。食べるモノがない苦しさは言葉にできない体験です。その空腹の苦しさを助けてくれたのがさつまいもでした。
さつまいものお陰で今がある世代の一人として、またさつまいもの町に住んでいる者の一人として、誰かがさつまいも文化のとりまとめをしなければならないと思ってきました。
学校を出てから、最初の24年間は浦和高校、その次の12年間は松山高校で社会科を教えました。どちらも特色のある学校でね、いい子ばかりで楽しかったです。幸せな教師生活でした。
学校の先生は忙しいですからね、自由な時間は少ししかありませんでした。その少しずつの時間をつかいながら、さつまいもとその文化や歴史を調査してきました。
前回のドゥエル先生の記事にも詳しくありましたが、川越でさつまいもに興味のある方が少しずつ集まり始めました。ドゥエル先生と山田英次さんと私、この3人でいろいろな取り組みをしてきました。
3人が、例えていうなら〈3本の矢※1〉ですね。この3人が揃わなければ、40年間の活動は続けられなかったと思っています。
心強い味方のもうお一人が「いも膳」主人の神山正久さんです。
生粋の川越っ子である神山正久さんは1982年にサツマイモ料理専門の料亭である「いも膳」を開きました。
研究熱心な神山さんのお料理は味も評判も高く、あっという間に人気店になりました。神山さんの偉いところは、その利益を地元に還元したいという純粋な気持ちから、1989年に「サツマイモ資料館」を料亭の敷地内に設立し、無料公開をはじめたことです。
私は60歳の定年と同時に縁あって1992年の春からその資料館に2代目館長として勤めさせてもらいました。世界に類例のない資料館だったからでしょう、来館者も問い合わせもとても多かったのです。
とくにさつまいもシーズンの秋には、TV局や新聞社、マスコミからの問い合わせ電話が朝から夜まで鳴りっ放しの日さえありました。さつまいもの文化史の研究をライフワークとしているわたしにとって、ここは願ってもない拠点となりました。
※1:〈3本の矢〉の教え
晩年の毛利元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せた。続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
―『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋引用。
サツマイモ資料館時代には多くのエピソードがあったと思いますが、特に想い出深いものをお聞かせください。
一つのエピソードとして、資料館に勤めだしたときに力を入れた「太白(たいはく)」探しがありました。
「太白」とは昭和30年頃まで盛んに栽培されていた品種で、名前通り太くて断面が真っ白なさつまいもです。ねっとりとした食感でやさしい甘さが特徴ですが、収量が少なく、生産性の面では栽培が難しい品種だったため、当時はなかなか手に入りませんでした。
「いも膳」で修業していた秩父出身の横田忠幸君のつてをたどって、秩父の飯島 久さんが『太白』を毎年作っていることを知りました。それでさっそく秩父に行ってみました。飯島さんは掘りたての『太白』の中から見事なものばかりを選んで10kgほど寄贈してくれました。
こうしてサツマイモ資料館は、立派な「太白」の展示もできるようになりました。以来、飯島さんが毎年「太白」を送ってくれるようになり、私はそれに生産者の住所氏名を書いた札を付けました。「太白」が欲しい人は、飯島さんと直接交渉ができるようにしたのです。
秩父で美味しいけれど栽培の難しい「太白」を作り続けていたのですね。
私は教師になった戦後すぐ、秩父地方にもよく行きました。秩父は人情味のあるいい土地柄です。
飯島さんは気骨のある方で、太平洋戦争後に続々と現れたサツマイモの新品種に手をださなかったのです。
だれになんと言われようとも「太白」だけを作り続けました。父親の口ぐせが「このいもはいいイモだから絶やすなよ」であったからとお聞きしました。1927(昭和2)年生まれの飯島さんは当時78歳でした。ご夫婦の年齢のことも考え、「太白」畑は2反(20a)ほどに抑えていました。
平成17(2005)年12月14日、その「太白」にスポットライトが当たりました。毎日新聞社の「もう一度食べたい」シリーズ記事で、“幻の太白いも”として紹介されたのです。その反響は大きく、全国から太白の注文がどっと来たので、対応のしようがなかった。困った飯島さんに秩父の人たちが協力の手を差し伸べました。
「みんなで大白の畑を増やせばいい。そうすれば秩父名産も増える。町おこしにもなる」となったのです。
太白のため、飯島さんのために、秩父市役所・県農林振興センター・農協・秩父地方公設卸売市場などが一つになってすぐ動き、生産者13人の「ちちぶ太白サツマイモ生産組合」があっという間に立ち上がりました。その設立総会は毎日新聞に「太白」の記事が載ってからわずか2ヵ月半後の平成18(2006)年2月14日でした。私はさつまいも生産に関わる農家のみなさんの熱気と実行力、結束力、そして早業にびっくりしました。
「いもせんべい」は川越にしかない!というのは本当ですか?
はいそうです。ニンジンやハスの根をせんべいにするお菓子は今でも名古屋地方にありますが、いもせんべいは川越だけのものです。川越の先人たちが工夫して創り上げたオリジナルのいも菓子なのです。
明治時代は鉄道の黎明期でもありました。川越の最初の鉄道は川越と甲武鉄道の国分寺駅とを結ぶ「川越鉄道」でした。今の西武新宿線の前身で、開通は明治28年(1895年)でした。そのおかげでいろんな人が川越に来るようになりました。そこで川越らしいオリジナルの土産品を作ろうという機運が盛り上がりました。いろんな人がいろんなものを考えたんですね。その中で『もの』になったのが「いもせんべい」で、明治37~38年(1904~1905年)の日露戦争の頃、製造開始を開始したといわれています。
100年以上前に考案されたお菓子が今も売れ続けているんですね。
過去の資料によると、「いもせんべい」は最初から売れ行き好評だったようです。
まず川越いもは江戸時代から有名でしたから、その川越いもを原料としたところが評判につながりました。
いもせんべいは、使ったイモの大きさや形がひとめで分かります。同じ形のせんべいがひとつとしてない個別性、そこになんともいえない造形の面白みもありますよね。また昭和20年代まで白砂糖は高価なものでした。その貴重な砂糖を特製のハケで生地にたっぷり塗ることにより、駄菓子とは違う高級感もPRポイントになったようです。
ここで創業当時から変わらない製法の「いもせんべい」の製造過程動画をご覧ください。
この動画の戸田眞一東洋堂社長※2は県立松山高校時代の教え子でした。
戸田社長に井上先生の授業の想い出をお聞きしたところ、
「先生は教科書を使わず(笑)、とにかく面白くて、いろんなお話を聞いているうちに終了チャイムが鳴る、そんな授業でした。(戸田眞一)」
※2:東洋堂☞http://www.imosenbei.com/
井上先生は教科書を使わず(笑)授業されたんですか?
教科書も使いましたよ(笑)。
昔は教科書の作成に関わったこともあります。教科書は、その時々の時代のトピックスを織り交ぜながら、工夫してつくられているのです。要点をもらさず、効率よく学ぶためには、よく出来ているんです。
ただ、やはり社会科が嫌いになってしまう子が出てくるのは「無理に年号をおぼえさせられる」からのようです。興味がないことを無理やりおぼえさせられたら、誰だっていやなものです。
逆に興味があることなら、深く学んでみたいと思うものです。
どうしたら社会科を好きになれるでしょうか?
まずは自分の興味にしたがって学んでみる。学んでみて面白味を感じるところを広げながら教科書を上手く使う、それが大事だと思います。
私の場合はさつまいもでしたが、どんなことでも「あれっ」と気になったことを調べてみる。
調べれば調べるほど、その歴史やその地域、出来事に面白さや関連性を感じるはずです。
サツマイモ資料館の館長の時には、総合学習授業の小中学生がよく見学に来ました。
そのときもこちらからまず説明することはしませんでした。
興味を持った子どもは私に質問してきます。チャンスはそこです。そのタイミングではじめてきちんと説明をしました。だからこそ、こちらはあらゆる種類の質問に答えられるように準備することが必要です。
でも説明からは入らないのです。「こんなふうに見てほしい」とか、「こう考えましょう」といったことは言わない。子どもたちには、先入観なく展示を見て、自分で感じてほしい、自分で考えてほしい、そう思ってきました。
私には小・中・高校生の5人のかわいい孫がいますが、そんな気持ちでひとりひとりの成長を見つめています。
最後にこれからの活動についてひとことお願いします。
これからさつまいもの文化史を編纂することが私のライフワークであり、夢です。
これまで先人の歩んできた歴史とつむがれてきた史実を次世代のためにとりまとめておきたいのです。
たとえばお話した「いもせんべい」の製造元もしんちゃん(東洋堂・戸田眞一社長)のところをはじめ、数件ありますが、そこからいもせんべいを仕入れて売っている店は数え切れないほどたくさんあります。
いもせんべい以外のいも菓子を作ったり、売ったりする店も増えています。でもそういうことは先人の積み重ねてきた『下地』がなければ、起こしたくても起こせるものではありません。
川越には明治のむかしから、いもせんべいを中心とするいも菓子業の伝統とノウハウがありました。
その下地があったからこそ、それぞれの時代の動きに対応した、新しいいも菓子業を興せたことを、私たちは忘れてはならないのだと思います。
秩父の飯島久さんは若いときから「太白」にこだわり、それだけを作り続けてきました。その労苦はしっかりと報われました。今、川越では栽培が難しい「紅赤」にとりくむ志高い生産者さん達がいます。
秩父のみなさんがそうしたように、周囲の私たちみんなで応援をしていきたいと思っています。
さつまいも大学さんも、そんな志をもって活動を拡げていってください。
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