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サツマイモ料理で人と街の運命を変えてゆく!創作料理いも懐石の挑戦。料亭「いも膳」神山正久さんインタビュー ■Sweetpotato Interview vol.5
- 2024/9/9
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川越市出身。大学卒業後、都内の日本料理店などで料理を修業し、地元で観光客らをもてなす川越をイメージした郷土料理店をつくろうと1982年に「いも膳」を創業。またサツマイモ普及のために店舗敷地内にサツマイモ資料館を開設(現在は閉館)。さらにうなぎ専門店「うなっ子」を姉妹店として営業中。
どのようにしてお料理の道に進まれたのでしょうか?
料理の道を目指したのは中学校3年の時です。
いつも一緒に遊んでいた親友の家が老舗料理店で、毎日のように出入りしているうちに、料理人になろうと決めました。
商売をする以上、経理を学ぶ必要があると考え、川越商業高校(現市立川越高校)で会計や簿記を学びました。身体も鍛えたかったので野球部に入り、グラウンドで白球を追う日々でもありました。
「高校を卒業したら10年後に自分の店を出す」と決めていたので、頭も身体もフル回転で鍛えました。
高校卒業時に料理の道へ進むふたりの友人が、それぞれ有名な調理学校に進学しました。
そのふたりとは今も親友ですが、良きライバルとして負けたくないと思っていました。
私は経営学を学ぶために大学に進みましたが、ライバルは朝から料理の修行に邁進していましたから、無駄な時間を過ごす気は全くおきませんでした。
大学1年生で単位を取れるだけとって、後は魚屋と肉屋でアルバイトをしていました。
ひと月に、少ない月で100時間、多い月には200時間はしていました。
200時間ですか!? フルタイムで働く人以上の労働時間ですね。
大学3年生ともなると授業も減り、働く時間がたくさん取れたので、とにかく日々修行だと思って、1日1日を大事にしていました。10年後に自分の店を出すために、悔いのない10年間を過ごすと心に決めていましたからね。
和食の中でも、寿司がいいか、うなぎがいいか、じっくり考え、結局うなぎ屋で働く道を選びました。当時は半社員のような立場で、朝6時から夜遅くまで、授業の時間だけ大学に行かせてもらって、また仕事に帰ってくるわけです。その合間に生け花やお茶の稽古もしていました。
正社員並みに働いて、勉強もして、さらに習い事も…スゴイ気力と体力ですね。
川商野球部で心身ともに鍛えられたからね、特に体力には自信がありましたよ。
素晴らしい日本料理のお店を創るには、いけばなとお茶の素養がどうしても必要だと思っていましたし、同じ調理技術を持った人間が同じように働いたら、そこから先は感性の勝負になる、とも考えたからです。高校のときに簿記の資格はほぼ合格して、大学の成績も悪くなかったので、4年生になって会計学の教授から、「税理士になるんだったら税理士事務所を紹介する」といわれました。ところが自分の志望を話したら、「うなぎ屋は紹介できないから、自分で就職先は探してくれ」と(笑)。
それで自分で就職先を見つけました。夢中で働いているうちにあっという間に5、6年が過ぎちゃいました。人の何倍も働きました。
働きながら川越で自分の店を開くための準備をされたのですね。
料理の修業をしていて思ったことは、川越はサツマイモが代名詞なのに、本格的な専門料理店がないのはおかしいということでした。そこで、誰もそれをやらないのなら、そう思った自分がやるしかない、と決断しました。地元の人だって、親戚や友人が県外からくれば、やはりその土地の郷土料理でもてなしたいと思うでしょう。
やっぱり代名詞であるサツマイモの専門店が川越には必要だと思いました。
もうひとつ心に決めたのは、「今ある川越のお店に迷惑をおかけしないこと。お客さんを取ったとか取られたとか、そういうようなことは起こすまい」ということでした。当時はうなぎ屋さんも料理屋さんみんな元気が良くて、川越市内にたくさんあったからです。
そして「いも膳」がスタートしたのですね。
当時は「いも」の響きがちょっと下にみられるようなマイナス面があったので、後ろにプラスの要素を加えなければと考えました。「ぜん」の音は「善」であり「全」であり響きも良く、『いも膳』と決めました。またその頃はサツマイモのイメージが、今では想像できないくらいに悪くて・・・。
戦時中は、サツマイモがあったからこそ飢え死にしないですんだのに、そのことを忘れてバカにする風潮さえあったくらいです。川越出身と知ると「いもにいちゃん」や「いもねえちゃん」と呼ばれたりしてね(笑)。そんな中でサツマイモを恥ずかしいもの、ネガティブなものとして、隠したり無視をしてきたわけですよ。
私は「いも膳」を開く時に、そんなくやしい思いをしないですむようになるには、サツマイモを野菜のなかの王様にするしかないと思ったのです。自分にはそれができるんだという自信もありましたから。よし、やってやろう!サツマイモのために一生を捧げた先人たちに「見ていてください」という気持ちでしたね。
野菜の王様にしてあげたい…すごい「さつまいも愛」ですね。
野菜の中で一番かっこいいもの、素敵なものにサツマイモをしたい、その一念でしたね。
どこそこに美味しいサツマイモがあると聞けば、そこへすぐ行って買ってくる。それが本当に良いものだったら、お店で使うようにしてきました。今もそうです。世間一般のサツマイモへの関心が低いなかでありがたかったのは、〈川越いも友の会〉の活動でした。井上浩先生、ドゥエル先生、山田英次さんや〈川越いも友の会〉のメンバーのみなさんに支えられながら、料理の創作にも励みました。サツマイモを健康食・美容食などとして盛んに宣伝してくれたおかげで、その活動をマスコミがこぞってとりあげてくれました。
開店当初のお客さまの反応はいかがでしたか?
とくに開業してからの最初の3年は大変でしたよ。それまで、いも専門の料理屋なんてどこにもなかったですからね。「なにを食べさせられるのか」とみなさん見当もつかなかったはずです。店をはじめた頃は、やはり歴史も暖簾もないわけだから、ゼロかマイナスからのスタートです。
話のタネに「一応食べてみようか‥」「試しに行ってみてやるか…」くらいですよね。でも物事っていうものは、努力を重ねてある一定のレベルを越えると一気に形勢が変わるんです。
今度はお客さんから「食べてみたい」「また来たい」「なんとか予約をとりたい」という姿勢になるわけです。開店と同時に、お店の前に大きな看板を出しましたが、お客さんが思うようには入ってこない。その暇な時間にいも料理の試作に力を入れました。5~6人いる調理人たちと、ああでもない、こうでもないと必死で研究しました。
そのうちに、いも料理を単品で出すよりも一つのまとまりのある物に組み立てて出してみたらどうか、ということになり、試行錯誤の上にたどり着いたのが看板料理となった「いも懐石」です。それが当たり、お客さんが遠方からも来てくれるようになりました。
現在も看板料理の「いも懐石」ですね。
はい、いも懐石は一品一品どれもサツマイモをたくさん使っています。5割以下のものはありません。
お客さんはいもを食べたくてきてくれるのですから、たくさん食べてもらえるようにしなければいけません。でもその塩梅がむずかしいのです。サツマイモばかりでは全部は食べてもらえないのです。
コツは「いもの姿」をなるべく見せないことです。それを見てしまうとお客さんは最初の一皿でお腹がいっぱいになってしまいますからね。見ただけでは、どこにいもを使っているのか、分からないようにします。
お客さんは川越のいも懐石ってどんなものなのだろうと、あれこれ想像しながらやってきます。
いも料理?どうせ、「いもごはん」と「いもてんぷら」だと思ってくる人が多かったので、それをいい意味で裏切れるものをだしたい、サツマイモが本来持っている素朴な味わいを最大限に引き出して調理する、と工夫を重ねました。それでもやっぱり天ぷらにすると紅赤が一番美味しいんですね。紅赤は日本一のサツマイモだなと思います。
お客さんが予想もしなかったお料理が並んで、お客さんに「あっ」といわせたい。新しい発見の喜びを味わってもらいたい。そんな思いで、店内のしつらえや器も工夫をしてきました。いい日本料理にはいい器を使わなければなりません。京都で日本の代表的な日本料理屋に器を卸している業者さんのところに通い詰めて勉強させてもらいました。日本料理は春夏秋冬、季節に合わせて移ろうもので、いも膳では月毎に全ての器を入れ替えています。
そしてサツマイモ情報の発信基地、サツマイモ資料館をつくられたのですね。
サツマイモ資料館は私設の資料館として敷地内に1989年開設しました。
サツマイモに関する資料館としては日本で唯一のものでした。入館者は食事に来られたお客さんや総合学習授業の小中学生、農協職員さんや生産農家、食の研究グループ、マスコミ関係者など、年に3万人くらいが来てくれました。日本に一つしかないからこそ、いろいろなところから声がかかったし、当時は茨城県や千葉県の各市町村のみなさんも研修に来てくれました。青森県の皆さんはリンゴとサツマイモを一緒にフルコースみたいな料理できないかと、商工会議所が音頭を取って観光バスでわざわざ一泊で勉強しに来たり、思い返すとそういうことがいっぱいありましたね。日本中で本気で町おこしに取り組んでいる人が「何かをつかみたい」と必死になっていました。
20年間運営して2008年に閉館しましたが、資料のほとんどを川越市立博物館へ寄贈しました。
税理士の道を勧められるほど数字に精通されている神山社長が、自社の資産を目減りさせ、直接の収益につながらない私設資料館への出費を、なぜ決断できたのでしょうか?
うーん、ひとことで云えば、川越とサツマイモに対する感謝と愛情、そしてロマンですね。
京都や奈良、金沢、日本中に素晴らしい観光地がありますが、そこにはそれぞれ先人たちが積み重ねてきた歴史と土地柄があるわけです。学ぶべきことはたくさんありますが、真似だけでは超えられない本質と魅力があります。
江戸の昔から「サツマイモといえば川越」を浸透させてきた先人たちの労苦と風土を受け止めて、それを未来に向けて、伝え続けてゆくべきなんです。
お料理で大切なのは風味だけでなく風土や土地柄もその旨さを醸し出します。
地元の先人たちがサツマイモという名物を川越につくって下さった。東京の人も川越に来て食べると、いもの本場だからと美味しく感じるわけです。サツマイモのお陰で豊かにしてもらい、それで入ってきたお金をただ自分のものにするのではなく、資料館をつくることで川越市全体のまちおこしにつなげられれば良いと思いました。
いも膳だけではなく、川越の街全体の魅力が上がって、いろいろなお店を目当てにそれぞれ来店してもらい、それが地域全体の相乗効果を生んで定着してゆけば、地域全体が良くなるし、働くみんなが誇りをもって暮らせると思っています。
つまり「母数を増やす」ことを考えたのです。
目先の売上だけでなく、地域観光客の絶対数が多ければ、どの店も恩恵をうけられるのですから。
地域全体の魅力を高めることなのですね。
例えば、川越の蔵造り観光地の中心にある元埼玉りそな銀行川越支店、あの建物は川越の財産、宝物です。民間企業の所有物であっても、歴史観や観光哲学のない再利用をすると、蔵造りの街全体に影響します。これからの100年先を見据えると、私だったら古都川越の迎賓館として、日本中を観光している目の肥えた観光客か来ても、「これは本物だ、また来たい」と思わせるような川越観光の中心にしようと考えます。歴史ある建物の中に本物の書画骨董、本物の料理、本物のお茶室で正統なお作法のお抹茶を飲める・・・、そんな雅な場所に育て上げていけば、川越は一流の観光地に近づくと思います。
川越が京都や金沢のような一流の観光地になってゆけば、地域全体が永続して潤ってゆけます。
そんな工夫も行政がやってくれるだろうと頼るのではなく、民間の力で知恵を合わせて行動していくべきだと思ってきました。
お料理の世界を目指す若い方に伝えたいことはありますか?
地元を大切に、地産地消はもちろん大切ですが、勘違いしてはいけないのは、全国レベルの料理の質を目指すのであれば、全国の食材を知らなきゃいけませんよね。
全国に目を向けて本物の食材を使っていかないと、「これが一番旨い」と胸をはって言えないわけですから。庭、室礼、器、日本一の料理を目指しましたから、休みの日は全国の名店に通い続けました。
地元を誇りとしたいなら、意識して外の世界を見に行かなければなりません。世界を知らなければ、井の中の蛙です。
私はサツマイモのおかげで、「いも膳」という物語をゼロから紡いでくることができました。大変だったけど楽しかったです。
だから、未来をになう若者たちにも、オリジナルの物語を創っていってもらいたいのです。
これからの自分の物語、ワクワクするようなストーリーを。
人間の心をくすぐるものが、どれだけあるかで、人も街も運命を変えてゆけるのですから。
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